IR labo.のコーチング

「IR labo.」とは?

IR labo.は、一人でも多くの方が、自分らしく、楽しく、幸せな人生を手に入れ、一人一人が恩送りをすることで、幸福度の高い社会を実現することを願って立ち上げました。
IR labo.はコーチングとキャリアコンサルティングを活用した人材支援サービスを提供します。

社名のIRは、私が自由研究が好きなので、英語の訳を調べたらIndependent Researchだったので、その頭文字を取ってつけました。
Independentは、主体的な、自主的な、独自なという意味があることが気に入ってます。

研究を辞書で調べると、「物事を詳しく調べたり、深く考えたりして、事実や真理を明らかにすること」と書いてあります。つまり、私の理解する自由研究は、「自分の頭で考えて答えを見つけること」です。

私は子供の頃から自由研究が好きで、大学では化学を専攻し、写真会社、水処理会社でエンジニアをし、41歳で働きながら工学博士を取得しました。今は62歳ですが、振り返ると人生は自由研究だなぁと思います。
人生は選択の連続です。その時々で、自分の頭で考えて答えを見つけて選択していくことの繰り返しです。

自由研究は、日常に疑問を持ち、「なんでだろう」と思うことから始まります。
疑問に対する自分の答えを見つけるために、自分で考えます。自分で考えて分からなければ、インターネットで調べたり、本で調べたり、誰かに聞いたりします。
それでも分からないと、自分で仮説を立て、その仮説を検証するために、検証方法(実験方法)を考え、検証(実験)をします。検証結果(実験結果)と仮説を比較し、考察し、結論(答え)を導きます。答えが不十分だと思ったら、新たに仮説を立て繰り返します。

でも、最近では科学技術の進歩によって日常に疑問すら持たないのではないでしょうか?
疑問を持ったとしてもインターネットで調べて終わり、誰かに聞いて終わりで、自分の頭で考えなくなっていませんか?
そうやって、自分の頭で考えなくなると、自分の事が分からなくなり、周りの情報に右往左往して、「自分は何がしたいのか」「自分はどんな人生を送りたいのか」「自分は何のために生きているのか」と悩んでいる人も多いのではないでしょうか。

IR labo.は、そんな方が、自分らしく、楽しく、幸せな人生を手に入れることを応援します。

こんな方をサポートしたい 

  • 今後のキャリア形成に悩んでいるエンジニア等
  • 子供の才能をどう伸ばして良いか悩んでいるお母さん
  • 生きづらいと思っている方、自分軸を持ちたいと思っている方
  • 資格、学位に向けて何から手を付けて良いか悩んでいる方
  • 潜在意識から自分を変え、使命に従って生きやすさを手に入れたい方

弱虫コーチ 川野 伸一(かわの しんいち)

私の信念は、働かざるもの食うべからずです。

私の両親は、鹿児島生まれで、結婚して東京に上京しました。父親は農業高校卒で警視庁に入り、叩き上げで警察署長まで出世しました。父親は、男は出世しなければ価値がない。そして、働かざるもの食うべからずが口癖でした。

父親の夢は、警察官の写真を何代も飾る事でした。当然、私は警察官になるべく育てられました。小学校4年生から剣道を習わされ、中学生では毎朝素振りとマラソンをやらされました。私は剣道が嫌いだったので、上手くならないし、試合にも勝てませんでした。一方、母親は、薩摩おごじょで、父親の前では男尊女卑でしたが、ケセラセラが口癖で、私には自由にさせてくれました。

私は、小学校の頃から学校の授業は苦手で、通信簿のコメント欄には、落ち着きがない、私語が多い、隣の子にちょっかいを出すと書かれていました。
小学校2年の時の担任が、自由ノートをはじめてくれて、自動販売機の構造、昆虫の解剖図、算数の問題等を書いていました。日常は昆虫が好きで、両手にカブトムシ、クワガタを持ち、体にカマキリを付けていたような子供でした。成績は小学校6年生まで、後ろから数えた方が早かったです。

中学生になると、暗記の必要ない数学だけが好きになり、高校への数学という難解な月刊誌を解いていました。裏表紙に東京理科大学の広告があり、この大学に行きたいと思ってました。 数学だけで、どうにか入れました。

父親は私を警察官にしたいと思っており、私も大学3年までは、そのつもりでした。 大学4年で研究室に入り、実験づけになり、研究が大好きになり、母親に大学院に行きたいと行ったら、心良く行かせてくれました。父親は学歴コンプレックスがあるので、私が理系の大学院に進んだことで、私を認めてくれて、警察官になれとは、言わなくなりました。

大学院卒業後、写真会社に化学エンジニアとして就職しました。その時、父親は“取締役はこう勉強しなさい”という本をくれました。 私はエンジニアリングの楽しさを味わいながら、出世しなければならないという事に悩まされました。

出張でドイツに行く事が多く、技術系企業のCEOはほとんどドクター(博士)をとっており、ドクターのステイタスが高い事を知りました。私も働きながらドクターを取りたいと思い、出身の研究室の教授に相談して、ドクターを目指しました。当時、工場勤務でドクター取得は前例がなく、推薦状が必要だったので、自分で書いて、ハンコウだけ部長にもらいました。

仕事との両立は大変で、生産技術だったので、夜中の立ち会いも多く、係長という中間管理職だったので、上司と部下の間で疲弊していました。

そんな時、工場でクレームがあり、連日その原因究明で徹夜が続いており、同僚から、ドクターの勉強もしてるのに、目の前のクレームも解決出来ないのと、言われました。心が折れました。

それから、何をやっても楽しくなくなりました。思いきって、健康相談室に駆け込み全て話しました。 カウンセラーの方が、明日から休んでくださいと言われ、はじめて診療内科に行きました。先生は辛かったねー、脳のエンジンオイルが枯渇してるね、と言われて、涙が出てきました。

薬を飲んで、2週間ぐらいゴロゴロしてたら、心の底からエネルギーがみなぎってきて、それから、博士論文を書き上げました。1ヵ月、会社を休み復帰してからは、出世も諦め、楽しく仕事が出来るようになりました。41歳で工学博士を取得しました。

44歳の時に、アナログからデジタルへの時代の変化により、写真会社が創業事業から撤退することになり、大きなリストラが行われました。私は、当時の勤務地の小田原から神戸への転勤を言い渡されました。娘二人が幼稚園年長と小学校2年生で、神戸には単身赴任になるので、一番子育てで美味しい時に、娘達と過ごせないこと、神戸での仕事が自分の希望(研究開発)ではなかったこともあり、早期退職を決意しました。

約4ヶ月、転職活動を行いましたが、約60社に書類を提出し、書類選考に通過したのが数社で、やっと水処理会社に転職できました。写真会社は約3万人でしたが、転職先の水処理会社は約300人の中堅会社でしたが、私の希望する研究開発、新商品開発、新事業開拓、大学との共同研究を経験できました。

45歳~57歳まで研究開発を経験し、57歳の時に社長より、内部監査室への異動を命じられました。30年以上も技術の仕事だったので、内部監査室の仕事はめちゃくちゃ厳しく、辛かったです。ある意味、会社の嫌われ役で、機密情報も知ることになるので、2年間、会社の仲間との飲み会も参加できず、誰にも話を聴いてもらえなかったのが、しんどかったです。でも、会社全体を知ることができ、やりきった気持ちになったので、定年の1ヶ月前に自主退職しました。
もう一度、技術の仕事をしようと転職活動をしましたが、60歳以上での希望に叶った転職先は見つからず、どうにかエンジニア専門の派遣会社に正社員として転職できました。エンジニアとしての入社でしたが、なかなか派遣先が決まらず、技術コンサルタントとして、派遣エンジニアの何でも相談を行うようになりました。

エンジニアとしてのスキルはありますが、コミュニケーションや対人支援のスキルはないため、キャリアコンサルタントの養成講座を受講し、並行してコーチングの講座の受講も始めました。

この頃から、人を応援する仕事の面白さを知り、セカンドキャリアとしては、対人支援の仕事をしたいと思うようになりました。現在は2023年9月末に37年間のサラリーマン生活を卒業し、フリーとして対人支援の事業を行うための準備をしています。